女川町誌
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秋刀魚棒受網漁業は従来千葉県方面に於て行われ、三陸海区に於ては漁場並に海況関係から不適とみなされて操業されなかつたが、昭和二十年度に始めて三陸海区に於て施行され、豫期以上の漁獲成績を挙げたので、その能率的な漁法は将来大いに期待されて居る。(ハ)機船底曳網漁業の概況漁船の動力化以後、福島・茨城両県の技術者の指導により、大正五年頃より操業せられ、当時二隻でその後漸次増加した。大正十二年頃が最も盛んで三〇隻となり、当時は網を二三回やつて満船したものであつたが、大正末期のカツオ船の没落により底曳船も減少した。(この頃はカツオ船で底曳もやつた)昭和二十七年の経営者は十三名、十四隻である。平均屯数は二七・七屯で県下漁港のうち隻数は五位、平均屯数は七位である。この漁業経営者のうち四名はカツオ・マグロ経営者である。漁期は九月より翌年五月三十一日までであるが、大部分は十月より十一月又は十二月までさんま棒受網漁業に従事した。(ニ)さんま流網及棒受網漁業の概況さんま流網は昭和五年頃より福島・茨城両県に次いで始められ、鰹船の切揚後三隻位操業したが、昭和二十三年棒受網の出現によつて鰹船の全部と機船底曳船の大部二十五隻が現在操業している。漁期は十月一日(二十五年迄、九月二十日より)十二月又は一月まで従事する。(ホ)いわし・さば・あぐり網漁業の概況昭和六年勧銀よりの低利資金によつて各漁業協同組合が融資を受け、昭和六年桐ヶ崎漁業協同組合が自営し、翌七・八年には尾浦・出島・塚浜・御前・指浜漁業協同組合に於て始め、五ヶ統十隻が操業したが、その後十二年頃より不漁により経営不能となつたもの及び昭和十四年頃(支那事変)徴傭せられて沈没し、現在は終戦後より始めて個人経営のもの一ヶ統三隻である。375
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