女川町誌
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れたに相違ない。大正の末期、即ち大正十四年前後の頃には鰹漁業は非常な不漁におちいつて、多くの漁船はその為に返済不可能になり、半数は倒産したといわれる。この時代における鰹漁業の経営者は町の記録によると左の通りである。 察するところこの三十六人の経営者は一〇―二〇トンの鰹漁船に一五―二〇人の労働者を乗せて、所謂歩合制によつて漁撈に従事したに相異ない。大正五年頃の漁業が漁仲介人達の手によつて経営されることになり、こゝに鰹漁業労働者が女川に出たと推定してよいのであろう。ところが昭和四年の金解禁はこの東北の漁場にも深刻な影響をもたらし、漁価は大暴落した。例へば町の記録によると、ビンナガが三・〇―三・五貫、一尾僅かに三五銭―四〇銭、鰹一本八―一二銭に下落したという。 この漁価大暴落の煽りを食つて、女川鰹漁業者の大部分は没落したが、昭和六年になつて女川漁業の再建がやゝその曙光を見るにいたつた。これは勧業銀行から五年据置き、二十年完済の厚生資金が産業組合に融通されたためである。竹浦の産業組合は一躍一一六トンの鰹鮪の鉄船を作つて組合の自営として操業した。 戦争になつてから後、昭和十九年にこの船は徴用されて南方海上で船も漁夫も共に失われてしまつた。また昭和十年には出島の産業組合が一九〇トンの鉄鉛を建造してこれを自営したが、これは三―四年後には経営不能となつてし353

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