女川町誌
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下における各種の制約にその原因を求むべきであろう。昭和十五年において沿岸漁民の自家労働による貝類海藻の採集高が十四年度より七千万貫も増加しているのに反し、資材及び労力に支配される魚類漁獲高が同じ対比において六千余万貫といふ事変以来の減少を示している事実は、この間の消息を如実に物語るものといえよう。内地沿岸漁業は事変以来年々かなり大なる生産低下率を示しているのであるが、鰮及び明太魚によつて代表される朝鮮の沿岸漁業は事変後と雖も依然増勢を示し、大いにその資源的強靭と漁業経営面の特質を現したのであつて、特に内地側の漁船が事変以来著しく減少しているにも拘らず、朝鮮は却つて増加している。台湾及び南洋の斯業も事変後に於て減少を示している傾向はない。なお事変後、水産製造界において最も顕著な事象は食料品(一般食料品・寒天・水産罐詰)の製造高が急増し、従来の平均的比率が破れて非食料品(肥料及び魚油)より食糧品の方がやや多い程度であつたのが(食糧品五〇・一%非食料品四九・九%)十二年には五九・三%対四〇・七%、十三年には七一・五%対二八・五%、十四年には六一・六%対三八・四%、十五年には六二・三%対三七・七%となつて来たのである。事変下食料増産の声喧しき折柄農産物に必須の肥料が減じて、水産食糧品が増加しているのは注目すべく、これは一面において軍需及び農山村における塩干魚介類(特に鰮製品)需要の増大を反映するものであつた。⑵戦時下の女川の漁業然るに昭和十二年七月十日、支那事変が突発して時局は一変し、努力は軍事方面に集中して、産業方面は著しく不振となつた。次いで同十六年十二月八日太平洋戦争が始まつたので、愈々国家は挙げて戦に熱中し、産業は軍事方面に吸収されて終息し、遂に同二十年八月十五日を以て終戦となつたのである。この間に於ける女川地方の漁業状況を337

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