女川町誌
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二、大正・昭和の漁業⑴大戦前の女川の漁業女川地方に於ける漁業は、明治初期及び中葉の発達期をうけて、明治の後期より大正・昭和にかけ一大進展を遂げるに至つた。当時の女川地方の水産奨励状況を明かにする為め、女川町会議録報告からの水産に関する主なる事務景況報告を列挙して見ることとする。明治四十一年この年に於ける女川町の対外発展とも思われる事柄は、福島市に開設の奥羽六県連合水産共進会に出品したことで、出品点数は五十三点、出品人員は四十四名であつた。しかし遺憾ながら当時本村より如何なる水産品を出品したかは明かでない。明治四十二年水産業発達の進歩は未遅緩で、要するに各当業者は旧式を墨守し、新知識を養うことと其技術を講求しないのに原因すると当時の記録にある。然るに漁業法により、本年に於て農商務大臣の専用漁業免許状を得たるもの十三名、知事の定置漁業免許状を得たる二十九名、今や漁業組合が全く成立したので組合の発展に伴い水産事業の拡張と海産の増収と漁獲物の多額を期することは蓋し遠くはない。沿岸六郡聯合共進会は本吉郡志津川町に於て開かれ、出品数三十八とあり、受賞者十七名もあり少しつゝではあるが進歩のあとが見られた。明治四十四年県補助による出島・鷲神二ヶ所に節製造教師二名を招聘し、斯業の改良発達を計つた。又製造法伝習の為江島及び出島より四名を遣し伊豆国に習はしめた。大正二年水産節製造教師四名を静岡県より招聘して之を江島・出島・尾浦・鷲神の四ヶ所に配置し、当業者一般に就き指導せしめた。然し原料不充分な為上等の製品を出す事ができなかつた。大正三年同前不漁の結果原料に不足を告け、多数の製品を出す事が出来なかつた。大正四年節製造の教師を鷲神・江島・出島・寺間の四ヶ所に配置し指導の任に当らせた。本年は鰹漁近来稀有の豊漁で製328
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