女川町誌
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それでも荷馬車ができた後であるからよい様なものの、三十年前は「だんこ」と言つて馬の背につんで運んだものであるから容易でなかつた。二本づけと言う時は鮪を一頭の馬に二本つけたものである。それで三部落には馬が百頭以上もいた。大正十五年でさえ大沢二五頭・浦宿一〇頭・針浜二五頭もいた。(牡鹿郡女川町有林施業案による)明治二十八年石巻から女川までの県道ができた。そして馬車と「だんこ」の争論は世間を騒がした。⑸馬車争議の沙汰木村忠治氏は文明の利器用うべしと為し、馬車一台買入れて運搬を始めたが、前述のように「だんこ」方は鷲神の神風講を後だてとして、そんな物を用いられては、上つたりになると裁判沙汰にも及び二、三年かゝつて解決した。三十一年頃から、漸く馬車が歩き出し、大正十年頃には蜒々百二、三十台に及び、荷馬車ひきかたぎさえ起つた。無論鮮魚が迅速に運ばれた事は昔日の比ではなかつた。明治二十七、八年の戦に勝つて産業改革が行われ、日本の資本主義は益々強くなり、富国強兵を主張する国家主義に一般人はなびいて行つた。女川でも道路ができ、埋立を叫ぶ者がでて来た。⑹埋立の出願明治二十八年に田村饒氏が初めて女川浜に埠頭の埋立工事を願出た。処が四十余名の反対者が連署で異議を唱えたが村議会は浜方の利益というのでこれに贊意を表したのは賢明であつた。けれども魚問屋の問題はまだ進まなかつた。 ⑺漁業者の分化漁業が捕魚採藻に過ぎなかつた時代はすぎ、商品生産と分化の段階が生じ、更に工業化に発展して行つた。明治三十年に於て魚類・海草を売る者が五十七人、漁業者の分れて商人となつたものが、全村商人一〇六人中その325

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