女川町誌
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三、藩政末期の漁業形態女川地方の漁業は藩政時代の末期までは、主として沿岸漁業であつて、大陸棚に沿うて魚群の来遊するのを待つて漁をし、是を売るには背主に任せるか、又は「だんこ」と称して馬の背に積んで渡波・石巻に売り、或は遠く涌谷・古川方面に売り捌いた。今も見る旧道の高低甚だしい小径の山道を「だんこ」で運んだのである。之が当時の最も普通の生産形態であつた。小規模の分散的な家内労働漁業は商業資本による前貸制度により、或る程度集団的に統一され、更にまた前記の手工業的大規模漁業は、当時の漁奴的労働の上に其の原始的蓄積を続行しきたつたとはいえ、凡てこれらの生産及び流通の形態が結局において封建的政治機構以外何物でもないところから、藩政末に近づくと共に政治機構の崩壊過程と表裏して、その内部的矛盾を続出し殆ど収拾すべからざる状態に立至つたのである。藩政末も文化・文政・天保にかけて徳川封建社会の漁業が完成し、次第に解体を始め漸く没落に向いようとする段階の頃に当つていた。⑴海産物に対する課税海産物に対する税金は、その種類によつて税率を定めたが、魚粕肥料は四分即ち百円の価格につき四円、それに四分の附加税を課した。海草類・鰻鱈等には十分の一、鮭塩引・子籠りには七分の一、昆布は五分の一という制度で、317
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