女川町誌
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業の二種類に分つことが出来る。そして地方に於ても浦方に於ても、そこに行われる大漁業対小漁業の関係を言換れば、網元乃至親方対漁夫の関係は封建社会的な主従乃至譜代的従属の規範によつて結合されていることは、当代の地方浦方を通じて妥当する。農漁村共通の社会経済的生活機構の基本的基盤である。女川地方は農民(地主)の農業というのは少く、漁民の漁業の方が多かつた。しかし網元という制度はあつたらしい。また封建社会的な主従乃至譜代的従属関係というのもあつた様である。文政十年十二月より天保十四年二月までの横浦大肝入木村五郎右衛門の「鰯引網新規仕立諸入料帳」によれば、岩手県母体もたい村より網の材料及びそのすき賃等の取引の事から、五郎右衛門は当時の網元であることが明かである。勇蔵日記(寛政一二年~嘉永七年)藩政末期の女川地方の漁業状況を知る好個の資料は、石浜の勇蔵の書留めた『万ふしきの事控覚帳』即ち勇蔵日記と呼ばれるものである。この覚帳は寛政十二年(一、八〇〇)から嘉永七年(一、八五四)まで五十五年間の日記である。現在は女川町石浜の遠藤正氏が所蔵しているが、この日記によれば当時の沿岸漁場の様子がよく解るのである。この日記の筆者勇蔵の生業は漁業であつたと見え、女川湾や遠島附近の漁獲物と時々の価格を丹念に記している。なおその頃は女川に問屋というものが無かつたので、渡波や涌谷方面にまで持つて行つて売り捌いたことなども記してある。次にこの勇蔵日記からその主なるものを抜萃して次にあげて見よう。307

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