女川町誌
374/1094

以上の記録により、一か月に一艘づつ横浦より俵物を納めたことが知られる。当時五部浦の中心は横浦であつて、横浦には租税を取り立てる場所があつた様である。(右古文書木村上氏蔵)二、藩政時代の漁業藩政時代に於て主として漁業の行われた区域は、所謂沿岸漁業と称する大陸棚内であつて、遠く沖合に出漁する沖合漁業ではなかつた。また自然条件の結果として、海流と自然的地形の関係の如何が、漁業の成立に決定的な関係を持つていた。普遍的に行われる鰯漁は、大陸棚を被う沿岸潮に廻遊して来る鰯の漁であつた。かような自然的環境の下に漁業は成立し、漁浦聚落は起るので、藩政時代の漁業及び漁民聚落は、総じていえば内湾の周辺を繞つて点在し、そこに内湾漁業という特殊な漁業生活圏を構成したのである。わが女川湾沿岸の各部落も始め農を業としたが、一方漁民部落として進展し成立した。沿岸農民の若干は一定の漁業のみをする期間のあるのが普通で、半農半漁の農村というのがそれである。封建時代のもつ漁村の本質的特徴ともいうべく、漁民には農民の漁業と、漁民の漁業とがあつた。一は地主(地方)乃至網元(浦方)といわれる富豪階層にいとなまれる大漁業と、半農半漁(地方)乃至半漁半農(浦方)の小漁306

元のページ  ../index.html#374

このブックを見る