女川町誌
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第七節 女川町の通信 一、通信事業の開始 明治初年、一時民間に委ねた飛脚屋の郵便に代つて、先進国の新しい郵便制度を採用して国営を以て郵便事業を開始したのは、明治四年三月一日であつた。当時は旧暦であつたので、三月一日を新暦に直して四月二十日とした。それで四月二十日を郵政記念日としているのである。 当時郵便物を局から局へ運送する脚夫は、五尺位の適宜の棒の両端に二、三貫目程の郵便行囊をしかと括りつけ、之を肩にして一時間に二里半は駈けたという。脚夫の服装は襟に局名を染抜いた法被を着け、饅頭笠に股引、脚絆草鞋ばきの出立ちであつた。郵便物の少ない時は風呂敷に包み、之を肩にして早足に急いだ。その他郵便行囊や提灯などには「郵便御用」と大書してあつた。 郵便物の差立は明治十四年頃までは、市内外を通じて郵便函は局前に一個だけ備付けた。従つて数里も離れた所からわざわざ一枚の葉書を投函に来なければならなかつた。 その後郵便事業は年と共に発達した。第一郵便物の到着が非常に早くなつたことである。郵便事業開始した当時は勿論汽車も走つていないし、騎馬や馬車で運んだ訳でないが、東京と大阪間は三日と六時間で連絡したという。第二に料金が極めて安いことであつた。料金は当時は均一制でなかつたが、手紙は一通五匁までが東京・大阪間が一貫五百文(十五銭に当る)東京・京都間が一貫四百文、大阪・京都間は百文という安い料金であつた。第三に郵便切手を 301

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