女川町誌
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三、トラツク等 女川地方でトラックを始めて用いた人は、どこの人であつたかはよく解らないが、一年程で失敗して行つてしまつた。大正十三年頃前網出身の鈴木養助氏が是を見て文明の利器何で成功しない事があろうと考え、米国製フォードで一トン積のトラックを求めて新魚の運搬を始めた所が、道路が悪るく今の堀切道の最上の所に行くと、常に馬車が十台も二十台も行きなやんで留まつていた。このように道路が悪るいのでやつと一トンか一トン半積んで歩かねばならなかつた。それに度々器械の部分が破損して困つた。一度破損すると仙台か東京にしか部分品が無いので度々休む事になる。それでもどうにか忍耐して運送した養助氏は、初め馬車二台で魚を朝早く運んでいたが、右に述べたトラック一台で運送を始め、後には運送業ばかりを専門にしてトラック四台とタクシー二台とふやした。女川では是を自動車業着手の始めとする。然るに昭和三十年十二月末には大型貨物自動車が二十九台、小型貨物自動車は八十一台となり、交通運搬に大きな仕事をする様になつた。 298

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