女川町誌
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当時こんな唄が地方で歌われたそうである。これはこの頃の郡長が伊具郡金山の出身であつたからだという話である。人力車はこの頃は次第に地方にも及び、稀れには女川にも見られたのであろう。この地方は舟の便があるので、近頃まで人力車は無く、昭和八年に至り一台の人力車があつたということである。 二、荷 馬 車 荷馬車を女川地方で始めて作つたのは、鷲神の木村忠治という人で、それは明治二十八年頃のことである。それで一度に魚を運ぶと、その頃の「だんこ」と言つて馬の背で運ぶのに比べると一度に何匹分も運ぶので、在来の「だんこ」は立つて行かれぬという一種の労働争議が起り、忠治さんは村八分にされ、今の女川の遠藤栄助氏の所に移らざるを得なかつた。神風講を後だてとして三年位争つて遂に示談となつたという物語りものこつている。 忠治さんは七十四歳で亡くなつたが、この争いの損害を請求すると相手方は破産になるので、遂に取らないで解決したと言うことである。 それから二、三年の間に荷馬車は道路にえんえんとして百二三十台に及び、其の間には荷馬車引きの仁気さえ起つた。無論鮮魚が迅速に運ばれた事は昔日の比ではなかつた。今はトラックがあつて運搬するから荷馬車の用はあまりなくなつたが、昭和八年頃女川には荷馬車が二、三台あつたという。 荷 馬 車 小 運 搬 業 (昭和三〇年度) 297

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