女川町誌
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た。二万五千台の人力車といえばそれを引くに略々同数の車夫を要した訳である。 是等の人々の多くは貧しい暮しで、大抵は車持ちの親方から日々の賃銀で車を借り、一日中はげしい労働に従事したのである。 かような性格の交通機関ではあつたが、軽便で安価な乗物なので、全国的に普及し、明治二十一年頃に於ける仙台区内の諸車調によると、人力車の数は五五九台となつている。之を明治十一年からの仙台区内の諸車調は次の様である。参考までに掲げて見ることとする。 仙 台 区 内 諸 車 調 明治二十七年頃に至り、愈々幅の広い平かな新しい道路が女川地方に出来たので、人力車の走る姿も見られる様になつた。 女川道路を車で行けば 伊具の金山思ひ出す 296

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