女川町誌
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阿部東平氏・船越高橋金治氏のものも造船した。さて当時の鰹漁船は十二、三屯位の所が普通で、航海用として櫓十挺に帆一枚を備えるだけである。そして僅の天然氷を積んで出漁するのであるから当日帰りが多く、漁況風向等の関係で二日にわたることがあれば鰹の鮮度が甚しく下り、これを海に投げ入れて浮きたものは粕にしめるのであつた。 然るに植木氏の天赦丸のみは航海が機械力であるから、風向等もあまり問題にしないのみならず普通一日二航海するから、漁獲高も鮮度も断然他を圧し、鰹漁業界に一大革命をもたらすと共に、造船界にも新しき分野を拓き、大正四・五・六年頃より鰹漁船は借金しつゝも、続々発動機を取りつけるようになつたのである。 造船所というものについてもまた福田氏は女川の開拓者である。当時の造船は船主の宅に職工が出張して造船するのが一般で、誠に非能率的なものであつたが、大正三年始めて今の女川駅の西の方に造船所なるものを創設し、ついで鷲神北区半沢喜一氏の隣地附近に移り、大正六年同竹の湯(今の日の出湯)附近に大正八年丸今の間附近にと転々したが、この頃までの船主はやはり旧慣がぬけきらず、造船所というものを利用することが甚少く、従つてその維持経営困難を極め、廃業しようとしたことが幾度であつたかわからなかつたという。而して漸く業務が軌道に乗るようになつたら、昭和七年第一回の漁港修築工事が開始したので、止むなく現田畑鉄工場の西隣磯村産業の所有地に仮営業所を設け、同九年現在の宮ヶ崎の新魚市場の所に造船所の完成を待つて移転し、更に新魚市場設置の為め石浜に移つて今日に至つたのである。 当時造船技術に於て最も幼稚であつたことは、船舶の揚陸で冬季間と雖も首まで入水しなければ、他に揚陸の方法がなかつたというからそれは誠に勇壮な作業といえば如何にもよいように聞えるが、今日から考えれば馬鹿々々しい極みである。而かもそれは宮城県下皆そうであつたというのであるから、苦しい作業だと思いつゝもあきらめて居た 294

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