女川町誌
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かくて昭和十四年十月 町民歓呼の中に鉄道は開通したが、種々の理由で三部落の請願である停車場は設置されない。目の前を通る汽車を空しく眺めていることは、三部落民の残念にたえない所であつた。然るに翌十五年になるや軽快なるガゾリンカーの運転となつたので、三部落民から大沢出身阿部亀太郎町議の紹介により、本町に対し停車場を設置せられたい旨の陳情があつたので、議員提出議案として同年三月議会の決議を経て、女川町より当局に対し沢田駅女川駅間に停車場又は簡易停留場を設置せられたき旨請願した。当局も調査の結果内定せられるまでになつたのであるが、恰かも支那事変の発展により外油輸入が窮屈となり、昭和十六年春ガソリンカーの運転停止と共に請願も消滅してしまつた。然るに大戦の傷痍次第に回復し、昭和二十八年に至るや小牛田 ・ 女川間にデーゼルカーの運転計画確定せるを聞き、三部落有志相会して町長に停留所設置方を陳情したので、同年十二月一日町長議長名を以て仙台鉄道管理局に請願したるに、請願停車場は一切の工事費を請願者が負担すべきことになつているので、三部落は工事費約三十万円を醵出し残額は町負担として、町は改めて詳細なる調査書を添え二十九年七月正式に請願書を提出し、国鉄当局は数回に亘る現地踏査を行い町及び三部落代表の促進運動も行われた。三十年三月廿五日町議会に於いて工事費予算が議決せられ、同年十二月起工して三十一年二月七日竣功検査終了、同十二日より開業したのである。当日は旧元日に方り三部落が主催して開業祝賀式を浦宿第一区会長阿部正五郎氏宅で挙行した。参列者木村町長外役場員数名、女川駅幹部、当駅敷地寄附者四名三部有志等合計五十名、先ず君ヶ代斉唱、町長挨拶、三部代表謝辞等あり祝杯を挙げたのである。 敷地寄附者、阿部蔵治(五四坪)、勝又八郎(四四坪)、阿部久之助(一九坪)、阿部愛蔵(二六坪) 290

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