女川町誌
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して次の礼状を発送した。 去る二十二日仙台市に於ける官民大歓迎会席上の御演説中に「女川線繰延べの意なき旨宣明相成り、多年繰延べに悩みたる私共関係民は感激にたへず、建設に際しては御指示に従い御便宜を計る」旨の感激的な礼状を送つた。 これより数次の請願陳情が行われたが、昭和九年八月二十二日内田信也氏一行来県の際強力なる運動をしたのが功を奏し、昭和十一年起工して同十四年十月遂に開通を見るに至つたが、当時の落成式の盛大と町民挙げての喜びは女川始まつて以来と言われたものである。 これより先、石巻の湊から渡波まで開通していた馬鉄を、大正の末年女川町鷲神まで開通し汽動車に直したが、牽引力弱く従つて速力も遅く貨客共に利用価値少く、港の開発という点よりすれば微力であつたと言える。しかし石巻の中学校・商業学校・女学校・渡波の水産学校等に通学する者には利用され、この方面の効果が寧ろ大きかつたと言つてよいと思う。 これに引き替え国有鉄道の開通となるや、目に見える程貨客の出入が多く、女川港を生かし女川町の繁栄を来たしたものは一に鉄道であると言つても過言ではあるまい。昭和三十二年新魚市場が完成した。商港も亦完成して翌三十三年これ等を結ぶ臨港鉄道が出来、貨物駅を埠頭に設け、貨物は専ら海岸に於て取扱うこととなり、女川港と国鉄とは岸壁に於て連結し、初めて陸揚した貨物がトラックを用いずして輸送されることになつた。 浦 宿 停 留 所 浦宿停留所問題は、女川鉄道工事着手の当初から三部落民間に起り、昭和十一年十月次のような請願書を出している。以下今日に至るまでの経過の概要を掲げて見よう。 288

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