女川町誌
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大正十四年一月十二日石巻女川間鉄道調査会に於て、石巻駅より湊・渡波経由案と、井内・折立経由案とを比較検討し前者二百万円、後者百七十万円となり、結局湊経由案に決した。然るに既に湊を起点とし渡波折立経由女川に達する金華山軌道株式会社があつて、その株主は石巻・稲井・渡波・女川・その他財界政界の人々で、省線女川鉄道敷設に方つては当然買収せられるものと見られて居た。 同十四年女川鉄道株式会社設立計画が立てられた。一方に於いて国営鉄道運動猛烈なるに拘わらず、この私鉄の計画あることは現在の金華山軌道が路線二呎六吋、二十四人乗客車二輛、三屯貨車一輛六十分の勾配に於て僅に十五屯の牽引力を有するに過ず、資本金も貧弱にして、北上川架橋不可能のため、石巻駅との連絡を欠き海陸連結の能率を発揮し得ないことや国営女川鉄道の実現が容易でないことにシビレをきらしたものであつたろうと思う。趣意書・起業目論見書・定款・株式引受証・発起人規約書等まで出来たのであるが、遂に設立に至らなかつた。 昭和二年五月石巻・渡波・女川三町長名を以て、小川鉄道大臣に対し「松島・女川間予定線中石巻女川間速成」の請願書を提出した。同年六月石巻町長宇和野源三郎・渡波町長菊池明夫・女川町長松川豁三氏の名を以て、小川鉄道大臣に「石巻女川間鉄道敷設調査願」を提出した。同年八月十九日宮城県会議長矢本平之助、石巻・渡波・女川三町長名を以て小川鉄道大臣に対し「石巻・女川間鉄道速成の儀に付再陳情」をした。その文中に「過般御来県の際当鉄道敷設の急須事業なることを御認容の上、早速係官をして実地調査を遂げしめられ……(中畧)就いては今回の調査に基き昭和三年度起工相成るよう云々」と 昭和三年七月、三町長連署を以て、石巻女川間速成の請願書を提出した。 昭和六年八月十三日宮城県水産会長湯沢三千男氏(当時の知事)より鉄道大臣に対し「八月二日野蒜村に於ける第 286

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