女川町誌
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り交通の円滑を期せんとする。 越えて、昭和二十六年に至り、愈々第一次女川港修築工事の完工と新魚市場の完成とに伴い、女川駅より日本水産株式会社女川工場までの臨港鉄道の敷設が緊要となつたので、現女川町長木村主税氏より本町議会に対し左記審議方を要望されたのである。 女川港臨港鉄道敷設請願に関する決議 本町の商港漁港修築工事の完成は今や目睫に迫りたる現状に鑑み、この完全施設の一翼を図るため女川港臨港鉄道敷設実現は一万七千町民斉しく要望する処なるを以て、別紙(掲載を省く)の通り本町議会の審議可決を求めるものとす。 昭和二十六年三月五日提出 女川町長 木 村 主 税 三、女川鉄道敷設の経緯 女川に鉄道計画のあつた最初の文献は、明治二十年七月十三日宮城県知事松平正直が『牡鹿郡女川湾内計画之儀ニ付上申』という政府への上申書がそれである。これは港湾計画に伴う鉄道計画であるから、港湾計画の立消とその運命を共にしたことは勿論である。当時の計画は港湾史に、又怡士信吉氏著『女川開築論』中にも詳細を述べてある。 この頃の港湾や鉄道の運動も知事や県会の着意であり運動であつて、地元町村民の動きなどは文献としては何等ないのみならず、九十才位の古老の記憶にもないということである。町村制の施行が明治二十二年であるから、それ以前の町村民に斯様な運動を求めることも出来ないのは寧ろ当然であつたことと思う。しかし好機を逸したことは誠に残念なことで、若しこの時女川鉄道と国際港女川が出来てあつたならば、阪神・京浜に並ぶ石巻・女川地帯が既に成り、今日の如くヒンターランドになやむ女川港でなかつたと思う。 280

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