女川町誌
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た。この頃関係町村組合を設立して改修工事にあたつたが、当時通行人が稀で、且つ海路を辿るものが多かつたので、なお改修工事の実があがらなかつた。 二、村制施行当時の道路改修 明治二十二年町村制施工当初、女川村に於ては、第一回村会の議案第四号に女川を十区に区分し、その第三条に区長職務を指示している。その三に於て「道路修繕に関すること」を定めている。之が恐らく明治時代に入つてからの最初の交通に関する政治的関心であろう。 同議案第八号には県道掃除費として二十二円四十五銭を予算に置き、県道受持丁場掃除費は、その筋より通知次第、戸別割等級に賦課することとなつていた。(当時の女川村の歳出予算額は一、八八三円四五三) 明治二十六年度の歳出は土木費三円、橋梁費二〇円であつた。当時女川浜川尻の小橋掛替料として、橋梁費を村費から出したのは女川村として始めてのことである。 第九款に女川道路費として二二〇円七五八を支出し、女川道路改修費町村組合決議額としてあげている。組合というのは石巻町外七町村によつて組織されていたもので、郡長の主管に係るものである。この道路改修工事は明治二十七年に完成したと見える。 また明治二十七年ころ、大沢と堀切山の間に巾の広い新道が始めて開鑿された。女川村民の喜びは大変なものであつた。其の人夫の仕送りをしたのは浦宿の阿部徳之助氏と青木庄八氏の二人である。それは日清戦争の始まる頃であつた。所が阿部氏も青木氏もこの道路を作る為め「資材等の仕入れで大損をして浦宿に居られず、妻子を置いて北海道に渡つた」と言う後日談さえある。こうした事業のかげには何時もこんな悲劇がつきものであるが、両氏の義俠に255

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