女川町誌
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高白迄に御普請致候事。 右此時の御普請制道役の者共は、石浜肝入新右衛門・同浜与頭勇蔵・同右衛門・同宮ヶ崎の長右衛門殿別て石浜の銀十郎殿なり。 この記録を見ることによつて、当時御屋形様や御巡見様方々が如何なる道筋を通られたか、またその折道路の普請等を如何に行つたかが窺われるのである。 第二節 明治時代の道路 一、明治初期の道路開鑿 浜方女川組と呼ばれた女川地方は、女川湾始め万石浦の海上交通に依存していたので、陸上交通即ち道路の発達は遅々として進まず、明治初期の道路は藩政時代そのままの隘路に過ぎなかつた。 明治十三年に至り、渡波村の戸長松田常吉氏の発意により、牡鹿半島の裏浜及び桃生郡沿岸の魚類を渡波に入荷せしめる為には、須らく流留以東の道路を改修するに若かずと考え、渡波新田町橋元を起点とし、女川鷲神十文字に達する道路工事に成功した。更に明治二十年八月松平本県知事が地方巡回の折、県会議員の松田常吉・勝又昱、佐藤丈輔、伊沢作治諸氏より女川・渡波間の道路開鑿の件について建議する所があつた。 偶々女川湾築港の議もあり、地方の輿論が一決して、請願書を知事に稟申し、明治二十六年、色川・一色・須藤・中島・島田の五氏がこの衝に当つた。そして当時渡波新田町橋元より女川鷲神十文字までを第一区とし、それより裏浜の山麓を経て荻浜に至る間を第二区、山雉渡に至る間を第三区とし、その工費一万八百円を以て通道の改修を行つ 254

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