女川町誌
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この道路は曾て魚類を積んだ馬が、女川から渡波の問屋に急いだ所であろうし、また当時の御巡見様の行列が、折々女川方面に向われた道でもあつたのである。是等の事実を語る資料は少ないが、次の様な文化・文政・天保乃至嘉永頃の石浜の勇蔵の記録があるから参考までに掲げて見よう。 御屋形様女川浜へ御泊り、過る七日には御出立水沼御昼石巻御泊り、拙者共も水沼和田内記様御屋敷迄遠藤大倉様の六尺仕り罷上り申候、同月六日に拙者共網繰りへ乗り居り、御上覧綱女川浜へ参りまた御賞詞下され難有事に奉存候。 文化十五年三月の末 当屋形様の御ばゝ様石巻より渡波町迄御光来御出馬遊ばされ、塩場御見物それより牧山参詣遊ばされ、真野村通り水沼和田内記様御屋敷へ御入、それより石巻へ御帰り二三日御逗留なり御供勢男女弐百五六拾人なり。 文政二年うる四月二十二日より二十五日迄 水沼村の和田主馬之助様女川浜大肝入丹野助左衛門様へ御出遊ばされ、其より嶋御見物遊ばされ拙者共は網引御見物御目にかけ上申候、天保九戌年七月廿日に御巡見様御事石巻へ御出御泊り遊ばされ候、明廿一日には広淵御通り涌谷町御泊りに御出立、 巡見は神か仏か引臼か 上はまわりて下はこになる。 天保十三とら年六月女川浜宮ヶ崎両村にて川尻の橋相掛申候、此時の御人足は壱家に付壱人七分五厘代納は三百六文つゝなり右は女川浜本人拾人なり。 嘉永三戌の年十月十四日に 当屋形様御事女川浜へ御出馬被成置候、明十五日同所女川浜御出立被遊それより石浜通り御殿峠御茶被召上それより御前浜通り被遊指ヶ浜肝入清右衛門殿方にて御小休み被遊候、それより桃生分ヶ浜御昼雄勝浜御泊りにて、明十六日右同浜御出立にて大浜御昼、大須浜御泊り被遊候由、明十七日には御出立名振浜御昼それより段々御出馬被遊右に付道普請被仰付女川浜川尻の大橋より御殿峠迄普請仕候九月四日より十月十三日迄御普請仕 候此御人足千弐百人の御見詰にて御普請致御人足相出候村浜は江ノ嶋・出島・寺間・竹ノ浦・桐ヶ崎・石浜・宮ヶ崎・小乗・253

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