女川町誌
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之事に候。己来不斐不作之儀無之様可被申付候。 天保十二年十二月十二日 横 宇十郎 牡鹿陸浜大肝入衆へ 往来之由之儀者、文化七年相触候通に在之、其後御定貫目之外過貫目荷物付送候義、並諸氏諸家中荷物之銘を以駄賃帳にて百姓町人之商物等御定賃銭相払付送候義仕間敷旨、文政二年にも被相触候通、不都合之事に候。 己後不正之者於在之者駅々にて指留置、厳に可被及御沙汰候事。 天保十三年十一月九日 (駅法留) 又宿各駅の検断・肝入・人馬継立役人の怠慢のために時間を空費し、旅行者に迷惑損害を与え、特に公務の時間を延引せしめるという弊害もあつたので、左の令達を発しられたことがある。 後家中常々江戸上下之節人馬指滞候由に付、以来於一駅三時以上にも相成程人馬不相出留置候はば、人馬指滞何時より何刻迄引留置候との趣意駅役人より証文を取之、江戸御国共着次第早速目附へ河相届候事。 安永七年十二月二十四日 豊 前 近 江 将 下 野 外 記 (格式留) 三、文化・文政頃の交通 渡波町より本町浦宿を経て鷲神に通じている裏浜街道、即ち今の県道に沿うて昔の女川道路が通うていたと見られる。万石浦の北岸の山際を通過している道傍の所々に藩政時代に建立した供養塔とか、油殿山・月山などの碑が立つて昔の往来筋の名残を留めている。 252

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