女川町誌
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何に不便であつたかは想像するに難くない。日本武尊が東夷征伐に来られた時には海路、舟を利用されたように国史に見える。其の当時の陸上交通は足で歩く事が主で、原野には何丈かの大木が繁茂し、又、ばらや蔓草が密生し、湿地には葦芽が生い繁り、水のある処ではおよいで渡らなければならなかつた。その後馬や牛に乗つたり荷物を背負わせるようになり、川を渡るには少しの荷物などは頭にのせておよいだり、たくさんの場合は木をえぐつて丸木舟を作つたり、筏をくんだりして渡つた。手で櫂や棹をあやつて行くことが一番さきに人が考えた方法であつた。その後風の力で走ることを考えられるようになつたが、なお当時頗る不便なものであつた事がうかがえる。だから旅のくるしみは非常なもので、且つ危険も伴つたのであつた。「かわいゝ子には旅をさせよ」と云う諺もあるが、これは、むかしの旅行が非常につらいものであつたから、体や心をきたえるには旅行をしろという意味である。山をのぼり、川を渡り、雨にうたれ、焼けつくような日にさらされたばかりでなく、ごまのはいとか山賊とか、いろいろな悪者が、どこにでもいて人を苦しめたので、むかしの旅行はなみ大抵な事ではなかつたらしい。 大化の改新が行われるまでは、人々は遠いところへ旅行することはめつたになかつた。その頃は道も悪かつたし、川には橋がなく、また狼などがたくさんいたので、よほど大事な急ぎの用事でもない限り、誰も旅行などはしなかつたわけである。また旅行者が道で行きだおれになつても、誰もその死体をしまつするものもなく、旅行者が道で飯をたくことさえも近くの人々はいやがつたとそのころの本に書いてある。また十一世紀のはじめごろに東海道を旅行してその様子を能くかきとめておいた手帳がある。更科日記がそれである。この本を読んで見ると、その頃の旅の苦しみをしみじみ感じさせられる。 武蔵野を通る時には、あしが高く生い茂つて、前を馬にのつて行く人がもつている弓の先が見えない程で、そのあ248
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