女川町誌
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外人の姿が町内に折々見られるようになつたのである。最初の大型船は米国のドラフン号一万二千屯で、その巨体に町民は皆驚嘆してあつたが、それからは昭和十五年十二月パナマのサリア丸八千三百屯を最終として七千四百屯以上の日・英・米・威・パ等の油槽船が十五隻も入港し、保税工場もあつて東北地方燃油輸入港として君臨したのであるが、支那事変の伸展に伴い米・英・蘭等の封鎖政策となり、同十六年からは殆ど停止状態となり、日本漁網の三千屯タンク壱基は南方に徴用され、昭和二十年八月の空襲には若干の被害などあつて終戦を迎えたのである。五部浦の特殊潜航艇隊、女川の海軍防備隊を始め、女川港周辺の漁船運搬船が当油供給地に蒙つた恩恵は少くなかつたようである。而して戦時中に油の取扱を拡張したのは阿部喜商店であるが、終戦後岩城屋・塩釜商会等も拡張しつゝある。 終戦当時油槽の現有貯油能力は約八千屯であるが、外資による青森県の野内が強く戦災を蒙つたと伝えられるにつけても、女川港の復興は容易にして、且つ東北産業回復のためにも重要喫緊事であると、昭和二十三年五月九日より数度にわたり運輸省港湾局に理を尽して請願した結果、局長の視察となり、計画課長の現地踏査となり、係官の精細なる設計書となり、遂に同二十四年度金額国庫負担一千二百五十万円の予算通過を見るに至り、東北最大の鉱油大輸入港実現を夢みて少なからず喜んだのも束の間で。九月着工の間近になりマッカーサー司令部より斯の如き施設は油取扱業者自身の負担によるべきもので、国費を以つてなすべきものではないと横槍が飛び出し、女川港発展の一事業が遂に葬られてしまつたことは誠に残念である。当時の設計はタンク群の前面に特設桟橋を築造し、その先端に一万屯級油槽船のトモを接着し桟橋の上をホースにより油をタンクに送ろうとするものである。 終戦後の輸入油は広い敷地を有する川崎・徳山・松山・四日市等に殆ど原油のまゝ輸入して、これを精製し後各地に輸送するのである。船川や新潟は内地産原油場である。女川港は戦前は製油された重油を外地から直接輸入したの245

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