女川町誌
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付せらるゝに至り、今や女川湾漁港築設は天下の等しく嘱望する所にして、其筋に於ても近く之か調査に著手せられんとす。此の秋に方り、本村は之か施設に対し、周到なる注意を払ひ相当なる計画準備をなし、天恵を益々有利に利用し、以て漁港としての理想的施設をなすに遺憾なからしめんことを期し、大に漁港の能力を完うせしめさるへからさるは言を俟たさる所なり。之かため埋立等の如きも漁港、又は商港としての都市計画を樹て、村に於て之か埋立をなし、苟も区々たる個人的利益のため、濫りに海面の埋立をなす為、漁港又は商港施設に矛盾する施設を敢てしために天恵を毀損し、或は漁港又は商港としての将来施設に蹉跌、又は不利を来さしむるか如きことなき様充分の注意を加へられ、尚今後鷲神・女川・宮ヶ崎・石浜は勿論、其の他一帯の海岸埋立は村に於て埋立の計画をなし、以て本村発展を企図せられんことを望む。右町村制第四十三条に依り意見書提出候也。右意見提出せんとす、此段建議候也。大正十二年六月八日右提出者鈴木喜六木村慶視小松七郎治阿部竹治郎石森長治須田金太郎遠藤運治阿部左右太鈴木安蔵東海豊治平塚源治丹野麿木村佐助阿部米蔵浜野弥惣吉斎藤伊勢蔵武山八十治しかしながら滔々たる埋立熱の流れは、容易に抑止すべくもあらず、翌十三年も亦女川鷲神方面に別表の如き出願者を見、而かも議会は大部分支障なしと答申して居る実情であつた。時しも大正十二年末頃より、磯村音介氏誘致が議員間の話題に上り、翌十三年一月二十六日同氏は紹介者佐久間忠雄氏に対して、来女の意を明かにし、三月弟磯村利水氏と共に親しく視察して、四月村会議員並に有志と女川振興組合(後ち振興会と改称)を組織したのである。これが民間の滔々たる流れ、而かも乱雑無計画の公有水面埋立を、ガッチリと抑えることになつたのである。従つて同十三年以降の埋立出願は同組合事業と、村の埋立計画と表裏一体を237
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