女川町誌
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道路を開発して石巻方面との交通時間を短縮し、至便を図ることに運動を集中した。第十節女川港沿岸の埋立事業一、公有水面埋立の沿革明治十八年英国東洋艦隊の入港以来、女川湾の名声俄に高く、同十九年一月の閣議に内務大臣より女川港築港の提案にまで発展してあつたが、その後の気勢揚らずそのままとなつた。大正四年頃から鰹一本釣船が機械化船となり、大正八、九年にサガレン出兵が女川港から行われるなどの事実が地方民を刺激し、港湾運動が熾烈になつた折りも折り、本町会が大正十一年政府に対し意見書を提出したのである。曰く「女川・気仙沼の両港につき政府が親しく調査され、その一港を選び国庫補助港に指定せられたい」と。然るにそれが激烈な競争となり、県会までも二分して猛烈な運動となり、県も処理に窮したのである。これ等の空気が女川村民に反影して、鷲神・女川・宮ヶ崎地先埋立出願件数が、大正十一年には三十三件一万三千三百三十余坪に及んでいる。知事は一件ごとに村会に公益上支障の有無を諮問して来る。村会は之に対し支障なし、支障あり、或は決議を延期して調査の後回答したのもある。而してこの限りなき埋立熱を見たる町会議員一同は、大正十二年六月八日附で次の如き意見書を提出し、同十二日満場一致可決して、当時の村長松川豁氏に提出したのである。意見書客年十二月本県会に於て当女川湾を国庫補助漁港に指定の件につき其筋に意見書提出の件、満堂一致を以て可決せられ、又本年二月五日衆議院に於て女川湾に漁港築設請願の件、満堂一致を以て採択せられ、同月二十三日同院より政府に対し右意見書送236
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