女川町誌
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なければならない見透しがついたので、発令を待たず昭和廿一年十一月二十日退職することとなつたのである。よつて民間人として港湾振興に協力せられたいという考のもとに、女川港湾協会を設立しその会長に推戴せんことを図つたら、満場一致を以て会は成立し会長の就任も承諾されたが、たとえ民間人となつても政治的活動することが困難らしく、又健康も俄に衰えを見せるようになつて来た。この頃、令息須田欣衛氏が大計画もさることながら、手近かな漁港修築より始めよと別に漁業者に呼びかけて漁港振興会を起し、第一助役鈴木喜六氏、第二助役木村主税氏と共に二十二年一月初旬本県水産部を説得し、同日中旬木村助役と須田氏とが農林省に出頭して、昭和二十一年十一月一日請願中の㈥鷲神浜地先に関する部分、同年十一月十九日座談会第一漁港修築に関する部分の実施を請願して、鷲神の角浜方面一帯と、昭和十二年八月港湾協会計画書の女川浜前面一帯とをを七か年継続事業として総工費二千八百万円、昭和二十二年度起工の確認を得て来たのである。而して同年四月木村助役が町長に、須田欣衛氏は宮城県議に当選したが、須田前町長の事情前述の通りであるから、種々協議の結果五月二十六日両会の合同会議を開き、㈠之を合併して女川港湾振興会とすること。㈡役員は会長に須田県議、副会長に木村町長、木村元治町議長・鈴木前助役ということに決議した。かくて民間協力態勢は円満に解決し、大港湾計画も部分的ながら着工されたが、工事の進行につれ複雑なる障害がおきて来たのである。しかし之れを詳細に書く必要はないと思うからその概畧を書いて見よう。元来この漁港修築工事は、漁船の大型化と臨港鉄道の布設とに対処し、同時に市街地・工場地を得んとするもので、角浜方面は延長五百米巾三十米の埋立をなし、女川方面は宮崎の小防波堤より高辺崎前までを埋立てんとするものである。然るに角浜方面は昭和二十二年六月一日起工以来順調に進んで来たが、女川浜方面は駅前に魚市場を有する宮234

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