女川町誌
271/1094

二七分に位し、西は万石浦を隔てゝ渡波町及稲井村に隣し、南は山岳を以て荻浜・大原の二村に接し、北は桃生郡十五浜村に界し、東は女川湾に面す。湾は西南北の三面は山岳及丘陵に囲繞せられ、湾口は東北に面し湾外に出島・江島・二股島等の諸島点在し、湾内常に静穏にして水深く実に天与の良湾なり。加え所謂世界三大漁業の一と称せらるゝ金華山沖の宝庫を目睫の間に控へ、漁港として頗る優位置を占む。然れとも本町はもと地方の一漁村に過きずして、藩政時代にありても何等利用せられたる記録の存するなきは実に遺憾なり、維新後港湾修築計画ありしも実施するに至らず。又漁港修築を当路に請ひしも実現せず、漸く大正十四年女川振興会を組織し工費弐拾万円を以て弐五、〇五三平米を埋立て延長六〇〇米の護岸を築き魚市場を設け、越て昭和六年越木礁に燈竿を築き航路を標示し、更に時局匡救事業として昭和七年以降昭和十年迄に工費十五万円を以て埋立及護岸工事の施工せらるゝに及ひ、製氷・冷凍・油槽及水産品製造等の諸工場設立せられ一躍大漁港となり。其面目一新し、昭和十一年には戸口は一、八〇四戸・一一、六一九人となり、昭和五年の戸口に比し二二〇戸・一、九三〇人を増加し、其生産額は水産二、四九九、三三四円、工産二八二、三五二円、農産一七六、四二四円、林産八〇、〇三〇円、鉱産八、二〇〇円、畜産五,四二九円、計三、〇五一、七六九円にして移出入総額は昭和六年八、八五三噸なりしもの同拾一年一一三、〇六二噸となり、約拾参倍弱の増大となれり。女川港は女川湾の奥にあり、湾内水深く四時概ね平穏にして、三陸地方大海潚に際しても被害最も少く比較的安全なる地形を占む、洵に自然の良港にして大船巨船の出入及碇繋に適す。故に明治十年成川宮城県大書記官と島岩手県令と会見し、工費金四万円の修築計画を樹てたるが如き、更に野蒜築港工事中止の秋に際し政府は御雇工師蘭人ドウルン氏をして当港を実測せしめ、次て又内務上等技師山田寅吉氏を派遣し築港計画をなさしめたり。其後明治十九年一月宮城県会に於て築港費総額七八〇、〇〇〇円に対し地方費より二五〇、〇〇〇円支弁の条件を以て、女川築港速進の建議を満場一致を以て議決し、主務省に上申し同年同月内務大臣より女川湾築港着手の件閣議に提出せられ、玆に始めて女川港開発の端諸を得たりしも、財政上政府の断行を見るに至らさりしは洵に先週の恨事とする所なり。爾来軍航施設或は港湾修築或は漁港修築を其筋に請願する等地方有志は不撓不屈熱心に努力せしも、其希望を達する能は209

元のページ  ../index.html#271

このブックを見る