女川町誌
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再興に関し多忙を極め居り候へ共、多少意志に余裕相生じ候故、過日出状候次第御諒察下され度、而して本月中の旅行は目下見込無之も三月の初旬ともなれば都合出来る考にて出状仕り候、何卒時機も可有之候へ共、永遠の計画に付き一時を急ぐ必要は無之、又一時遅くるれども望み少くなる様な事業なれば断念するが得策にて小生は決して急がず、其の代り意思強固一旦志せば万難を排して成功せしむる希望に御座候次第、前述御玩味、土地有志者諸君の御意図承知仕度候。先は右申上度草々不一一月二十六日磯村生拜佐久間忠雄樣机下二、女川振興会の事績後年女川築港の大功績者として尊敬された磯村音介氏が、佐久間忠雄氏の紹介により、村の有志須田金太郎氏等と相知つたのが大正十三年三月である。磯村氏は女川港が天然の良港であることに着眼し、翌四月再び女川を訪ね村会議員有志並に村当局と相謀り「女川振興会」を組織し、爾来推されてその長となり、女川港開港開発に全力を傾倒したのである。左に掲げる女川振興会記念碑は、昭和六年に建立されたものであるが、この碑文を読むことにより、磯村氏の功績並に女川振興会の事績を明かに知ることが出来る。女川振興会記念碑宮城県知事湯沢三千男題額抑々女川湾の地勢たるや牡鹿半島の頭部に位し、峰巒屏の如く共に三方を囲み一面遠く開けて直に外洋に通じ、湾内濶く水平かにして最も大船巨舶の碇泊に適す、是を以て識者往々築港の議を高唱したるも荏苒空しく歳月を費して事未だ実現せず、深く以て遺憾と為す、大正十三年三月東京磯村合名会社長磯村193

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