女川町誌
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帰郷中須田金太郎氏等に磯村氏を紹介し、一方女川港の状勢の有望なることとを同氏に説明された。これが抑々磯村合名会社の女川進出となつた原因なのである。磯村音介氏より佐久間忠雄氏宛の書簡(大正十三年頃)を見るに、佐久間氏の人柄は素より磯村氏の熱意と用意周到さ、そして女川に対する真意がよくわかるから次に掲げて見よう。磯村音介氏より佐久間忠雄氏宛書簡全文拜啓前後両回の貴状正に拜見、実は貴兄御在村と存じ出状の所貴状に拠り北海道庁へ御勤務の旨、初めて承知然るに直ちに辞表御差出御帰村の御様子故未だ問題が其所迄進行せざるに斯くては万一御迷惑となりてはと存じ官庁の方は其儘となし有之度即ち尚御在官有之度希望を申上候、御説明の水産業が御地にて有望なる事は凡そ想像が付き候へ共、他国の者が出張りて仕事を為すと兎角其の地の者が色々と邪魔を為し為めに出費多く折角の事業を破る憂世間に多々有之候故、小生は第一に人の和を切望仕候斯くするには貴地の人と利害を共にするを最得策と信じ、依て資本は土地の人と折半になし度而して土地並びに家屋に付ては土地の人が十分に便益を与へられ、最廉価に提供せられざるべからず、而して向後何業に進展するとも同一方針を固守し、当方は半部の資本と知識とを提供し幾久敷に亘り土地も繁栄し出資者も繁栄し、又小生としては貴地にて得たる利益を更に貴地に投ずる事とし其の利益を東京へ持帰る様な考は無之何所迄も貴地本位にて開拓に従事し度、第一に此の方針にして土地の有志者が賛成尽力せらるるに於ては、当方にても全然何等疑念を懐かず安心して協力出来る儀に御座候、兎角他人が集ると種々と猜疑心を以て物を見るがため、折角の事業も発展出来ず、遂には喧嘩に分るる次第にて諸事互譲の精神を持ち我利々々を禁ぜざれば事業の成立は六ヶ敷御座候、即ち親類付合が必要なり小生として貴地にて事業に手を出す以上は貴地を恰も自己の故郷の如く愛するに非ざれば不親切と相成可申此辺に関し貴地有力者諸君の御考が如何のものに哉と案じ候、以上は今日迄貴兄の御観察も可有之、又向後脚□□も可有之而して土地を離れては不便なるべきも一応お尋ね申上候。小生も程ヶ谷工業は殆んど全滅(凡そ六千万円の損失)目下192 192

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