女川町誌
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治大正の交以来行われていた磐仙鉄道運動多年の宿望が達せられ、これ以来海路、或いは駄送、又は僅かに貨物自動車による運輸、移出入の系統が一新され、取引区域の拡大、時間短縮が産業上に及ぼした影響は測り知れないものがある。大正八年親興会によつて岩手県東磐井郡薄衣村へ、翌九年広野貞助氏によつて登米郡新田への乗合自動車が開始されて僅かに陸路交通が開けていたのであつたが、鉄道の開通により一般生活にも大きな変革が齎らされたのである。水産業上至大な関係を有する港湾は、昭和五年国庫補助による県費三十一万円を以て漁港修築を起工し、同九年完成を見た。昭和十年四月気仙沼魚市場の開業によつて漁獲物の取引方式が一新され個人企業であつた魚問屋制度に革命が齎らされた。第六節磯村氏と女川振興会一、磯村音介氏の女川進出明治十八年に英国東洋艦隊が来港し、また同年に本県会から女川築港の建議があつて以来、女川湾の優秀性が国の内外に宣伝された。その後新聞社長怡土いど信吉氏が『女川港開築論』なる著書を同二十二年二月出版したので、愈々社会の視聴を集めた。一方地元としては本村が中心となり、牡鹿・桃生両郡後援の下に築港運動を展開すること多年、大正十年には本県に於て精細なる鷲神地峡開鑿調査書を作製し、大正十三年には本県議長より建議まで提出されたが、この計画も遂に実現するには至らず、東北開発は掛声のみで何等実を結ばなかつた。明治の末年のことである。当時女川小学校長たりし佐久間千万太氏は神戸出身で、その長男忠雄氏は現に小乗浜に農業を営んで居るが、専売局に勤務してあつた頃磯村音介氏と知り合い、又磯村合名会社にも勤務したこともあり、191
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