女川町誌
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沼の復興との挟撃を受け、財政の貧弱と産業不振との諸条件は天然の良港を以てしても如何ともなすあたわざる難局に立つものに有之、緊褌一番この窮地を打開し以て厳然たる先進地への一大敵国として一方の雄たる可く奮起前進の秋に御座候。御承知の如く我町の産業は水産を以て其生命となし、水産業の隆盛は即ち吾町の繁栄に有之、これが適当なる対策としては女川鉄道の速成、漁港の施設完成等枚挙に暇あらず、町民諸君の福利増進を以て使命とする町議者の責任一層重大なるを痛感致され候。幸いにして微力の小生に対し深き御同情と御後援を賜り、再びその大任の為めに赤誠を捧げて町政に参与の光栄を得させられよ精励以て御期待に添ふべき決心に御座候。敬白昭和四年四月女川町会議員候補者植木新作宮城県会が大正十一年に気仙沼・女川抗争のたねを作つたが、その後の気仙沼の状況を知るため本吉郡誌中から気仙沼町概説の一部を抜抄して掲げる。大正四年の大火災を一契機として、その復興と同時に漁船・加工工場の機械化が促進され、従つて造船・機械製作・罐詰工業が勃興した。大正十五年上水道の計画が樹てられ、昭和三年六月二十六万円を以て起工、翌四年十一月之が最初の通水を見て以来、一般生活・伝染病の防止に寄与したのは勿論、水産加工・製氷・冷凍の如き各事業が劃期的な向上をした。この水道の竣工に先たち昭和四年二月大火災を機とし町の区劃整理、海岸線の整理、内港の一部埋立等市街地的整理が行われたが、之による経済的打撃は実に甚大であつて地方に於ける産業経済の中心地ではあつても、実質的には既に気仙沼町以外の資本によつて大部分が廻転されるに至つた。この昭和四年七月には漸く大船渡線が気仙沼まで開通し、明190
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