女川町誌
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さてこの時代に於ける女川港修築運動の様相を見るに、地元女川村や牡鹿郡がこの促進に参加した事実はなく、主として知事や県会が中心となつた。いうまでもなく野蒜築港の代りとしてやつきとなつたものである。しかし之によつて地元民に大きな刺戟を与え、女川港湾の重要性を知らしめたのである。そして次の時代に入ると、県当局は或る程度女川築港に見切りをつけ、該築港運動は時折、思い出す程度に止まり、以後は地元民が自主的に運動を展開する様になつた。これは一面時代が官治より立憲政治へと変遷したので、次第に政党運動の様相をおび、築港も政治運動化されて来たのである。第三節軍港誘致と商港開設一、女川軍港設置の請願前述の如く女川築港問題に関しては、明治初期以来、県当局並に県会等に於て再三政府に対し建議する所があり、政府また関心を寄せたのであつたが、明治二十年頃に至り、県当局は中央の情勢等に顧み、一応見切りの態度をとつた様である。しかし之に刺戟をうけた地元民の間には築港の緊要なことが次第に認識されて来た。日清戦争の直後、明治二十九年一月、牡鹿・桃生両郡の有志千二百八十二名の連署を以て、宮城県知事を経由し、海軍大臣に女川港を軍港とし、また本網港を商港として修築せられたき旨の請願書を提出した。この文書は女川村も参加して港湾運動をした最初のものである。当時宮城県知事より海軍大臣に進達した書類は次の通りである。なおついでに本網湾商港開築請願書と、当時に於ける宮城県会の請願書とを掲げて参考とする。168

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