女川町誌
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千二拾九間六分餘り又鷲神同様に掘割り、同川の東西両岸には暴漲を防く為都合によりて閘門を設け、西岸より又々同様掘鑿すること長三千八百拾間日和山の南麓を繞り、門脇村の地内に於て定川を横断し之を既成の野蒜運河に連接し、東名運河を経て松島湾に達せしむるものとす。但し運河の両岸には適当の傾斜を与へ石を以て堅固に畳上け毫も欠裂壊崩の虞なからしめ兼て曳舟の便に供す。⑸松平宮城県知事の上申如上の計画起案は遂に採納するに至らなかつた。そこで県当局は政府事業として速に起工することが難しいと見込み、別に県事業として、本港の改良を企画して之を上申した。明治二十年七月十三日当時の松平知事の上申書は次の様なものであつた。祕第五六号牡鹿郡女川湾内計画之儀に付上申管下牡鹿郡女川湾鉄道布設の儀は、先般正直上京の際親く御指示相成候儀も有之候に付、熟考ふれば諸船舶の出入、自然該地に帰し、奥羽地方の貨物輻湊すへきは論を俊たさる儀に有之、就ては貨物の揚卸し及び運輸の便利を図るか為、波止場を築造する等最も以て必要の事と思考し、其辺概略経営候処、同湾の儀は天然の港形を有し湾内概ね十数尺の水深を保ち、汽船巨舶の出入繋泊等にも差支無之候に付、先以て湾内便宜の箇所へ波止場三ヶ所を設置し、其沿岸は護岸工事を施し仮に停車場の位置をも定め、右波止場より停車場に至り、夫より渡波まて新道を開鑿し以て石巻街道に接続するものとし、別紙図面の通位置を仮定し夫々計画候処、概算金拾万円以内を要する見込に有之候、尤も真に概略の調に付波止場及び停車場等の位置に就き、追て其筋に於て指定せられ候節は固より変更の場合可有之に付、該金額も随て増減相成り可申候得共、亦大なる差違は有之間敷と被存候間、前書金額を波止場及道路開鑿費とし、其間国庫より相当の金額御下附相成候様御詮儀有之度、略図及仮仕樣帳相添此段上申候也。明治二十年七月十三日宮城県令松平正直内務大臣伯爵山県有朋殿167
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