女川町誌
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費四十万円を投じて女川港を修築しようと計画した事実があるが、この内容を詳かにする文書がない。かくて歳月を経ること八年、偶々同十八年五月、英国東洋艦隊司令長官ハミルトン中将が、旗艦アゥデシュス号以下五隻の艦隊を率いて、女川港に仮碇泊をし、親しく出島・尾浦・塚浜・小屋取等湾内の実況を視察し、軍艦の碇泊地として好適な港湾であることを声明した。元来それまで無名の漁村に過ぎなかつた女川港は、忽ちにして、天下の視聴を集めるに至つたのである。時恰も野蒜築港に失敗した後のことであり、且つ海軍部内に於いても女川湾の有望を唱えるようになつたので、玆に政府はさきに野蒜築港の計画を為さしめた御傭工師蘭人ドールンに命じて、女川湾の実測をなさしめ、次いで内務上等技師山田寅吉氏を派遣して築港の計画を為さしめたのである。 また一方同十八年松平宮城県令は県会議長遠藤温、同副議長増田繁幸の諸氏及び常置委員七名等と共に、内務省に出頭し、女川築港を懇請して諒解を求め、翌十九年一月宮城県会は全会一致を以て総工費七十八万餘円、内地方税より弐拾五万円支弁の条件にて女川築港促進の建議を決議し、内務省に上申した。かくて同年同月山県内務大臣より女川湾築港着手の件を閣議に提出したが、当時、財政の関係を以つて之が断行を見るに至らなかつたのは洵に千秋の恨事とする所である。先きに内務省より派遣された技師山田寅吉氏の女川湾』築港の計画は大要次の様であつた。⑴山田寅吉氏の築港計画女川湾築港に関する工事は、該湾より石巻に至るの間運河を掘鑿して航路の便を開くと、石巻より定川に至るの間新運河を以て石巻港を直に既成北上運河に連続せしめ、野蒜及塩釜北方に直航の連絡を通するの工事なりとす。女川湾は天然の良港にして巨大船を繁泊せしむるを得べく、尚漸次貨物輸出入の繁劇なるに至ては、物揚場・貯蔵庫・起重器等を建設するの必要を163
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