女川町誌
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以上の様な記事があり、僅かに寄磯・二股島・二股の迫門・大須の沖・江島など女川地方の海岸の地名が出ている。しかし女川港には立寄らなかつた。第二節女川港修築の計画一、野蒜港の築港計画明治政府が東北地方に開港場を設定しようとした努力の跡に歴然たるものがある。その一つは野蒜港で、その二は女川港である。明治六年大久保利通が内務卿の時、太平洋沿岸に、一良港を開きたいとの考から、オランダ人アルンス、ついで同国人ウエルに依頼して野蒜港を調査せしめた。更に内務省御雇の同国人ドールンの計画により、同十一年七月野蒜築港の起工までしたのであるが、波浪による土砂の埋没が甚しかつたので、同十七年遂に放棄することになつた。野蒜地方では同十四年の颱風で防波堤が一たまりもなく破壊されたといつている。この野蒜港なる名称はわが国の明治初期頃の海図はもとより、海外の地図にも載つている。当時より野蒜築港ということは、相当重視された問題であつた。しかしこの築港が成功するに至らなかつたことは、真に遺憾なことである。二、女川港修築の機運女川港の築港並に女川地峡の開鑿に関する意見は、藩政時代に於ても唱道されたことであると伝えられているが、その文献は未だ見当らない。維新後明治十一年に至り、宮城県令宮城時亮は成川尚義を伴い、岩手県令島惟精と女川村鷲神に於て会見し、工事162

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