女川町誌
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開成丸は仙台藩が松島湾内寒風沢浜に於て、始めて新造した西洋型三本マストの帆船で、当時黒船と呼ばれた軍艦である。安政三年(一、八五六)八月二十六日に手斧始をして翌四年十一月竣工し、時の藩主慶邦公(楽山)が臨席して進水式を挙行した。試航海として領内の近海を航行することとなり、乗組員には夫々の専門的職分により、十一名の幹部と一般乗組員として二十名計三十一名を乗組ませ、安政四年十二月二十五日寒風沢を出発して気仙沼湾まで航行し、翌年正月八日無事に帰航した。当時この航海に参加した小野寺鳳谷(儒者、養賢堂指南役)の手記になる『開成丸航海日誌』がある。この日誌中から女川地方に関係する部分を抜萃して見よう。(前略)黒崎の岬をかはせば金華山巍然として海面に現れ出づ。弁財天の祠、大金寺など見ゆれぱ、水手ども手洗ひ口嗽ぎして竹の皮に白米を盛り、海中に散じて合唱礼拜す。北は翠黛漂渺として海中に突出したるは本吉の諸岬にして、頂尖く雪を被るは気仙郡の氷の上山・五葉山皆々この壮観をほしいまゝにし新山・泊り浜に添ひて走り寄磯の浜を離るる十数丁にして二つの島あり二股島と名づく。大須の沖の荒灘の深さ三十二尋の処に麻の大綱を下して碇る。行程八里三十四丁に及べり。(中略)けふも始めより意を決して遠沖を走り、抜かば日の落ちぬ間に金華山をも通り果つべきに(帰り道)無用のところを往来してこゝにて遂に日を暮したり。月落ちて既に暗夜となれぱ二股の迫門(今の早崎水道)は乗入るること難く碇りをこゝに下さんと深浅儀を投じたるに、四十五尋に余りぬれば、水手も遂に大勇猛心を起して江の島の外に船を進む。八つ頃より小雨降出せしに半時ぱかりには晴れ上り、星光も次第に明かに西北の風も左まで強からざれば、暁かけて金華山を大廻りして大磯の南にて東方はじめて白し云々」とある。161
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