女川町誌
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と護衛の士卒とを随行せしめられ、仙台を出発し、塩釜・松島・石巻を経て牡鹿半島を廻り女川湾に至つた。その後雄勝を経て本吉・気仙両郡の海岸を探ぐり、盛・越喜来まで尋ね、帰途には海上で偶々津浪に遭うたが無事仙台に帰り、その後江戸に滞在して帰国された。一行中には切支丹伴天連ソテロも加わつていた。この時の実情を国王に対し報告した記録に『金銀島探検記』がある。この中から仙台及び牡鹿沿岸関係の一部記事を抜萃して見よう。慶長十六年十月二十二日土曜日江戸を出発し、途中宇都宮・若松・米沢を通つて仙台に着いた。土曜日米沢を出発して火曜日仙台に着いた。ここを領する王は伊達政宗殿である。政宗殿は日本の最も強い領主の一人で、その家が甚だ旧く皇帝に次ぐものである。彼は通訳が持つて来た朱印を受取つて、旅舎その他の準備を命じ、大使が到着した後使者をつかはして歓迎の意を述べて、船や馬匹その他不自由のないように給与する旨申伝へて来た。木曜日十時大使は王(政宗)のつかはした士卒に護衛され、ロンドンの上等の黒羅紗その他いろいろの贈物をもつて城に向つた。城は日本の中でも堅固なものの一つで、水の深い河にかこまれ、断崖百身長を超える岩上にあつて、入口は唯一つである。城下は江戸と同じく家の構造は江戸よりもまさつている。城から町を見下すと二レグワ(距離の単位)をへだてて海が見える。城に着くと多数の士卒が諸門に整列している。王の重臣の出迎を受け、しばらく待つて後接見室に入つたが、王は下座になつて大使を高座にすすめた。その座所には絹の敷物が目立つて見える。大使が室にはいると、王は起立して頭と手で日本風の礼をなし、これに対して大使はイスパニア風の答礼をした。王は祕書官をして「この国に最初に来たイスパニヤの使者である大使を見ることは非常に喜ばしく思ふ。且つこの国で良港を発見してフィリッピン(当時イスパニア領)やイスパニア所属の船舶が、この国に来港してイスパニヤと親交を結び、更に親イスパニヤ総督と通商するようになることを最も希望するところである」と述べた。大使はこれに答へて、イスパニア王の名において親交を約した後、さきにサンフランシスコ派の宣教師に対する王の厚意を謝し、伴天連フライ・ルイス・ソテロを招いで基督教を聞いて158

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