女川町誌
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々昭和十一年の秋、女川小学校(校長相沢清六氏)の職員生徒が遠足としてこの山に登つた。その際山の名が話題となり、職員の方々の創意により、色々な山名の案が出た。その中から望郷山の名が選ばれ、それ以来「ぼうぎようざん」と里人等も呼奥の海をうたへる歌定家朝臣たつね見るつらき心のおくの海は汐干のかたのいふかひもなし(新古今集)後鳥羽院我為はつらき心のおくの海のいかなるうらのみるめかるらん(続後拾遺集)ぶ様になつたと伝えている。丁度この年の十一月廿五日、日独両国の間に防共協定が結ばれたので、防共の音が望郷山の命名に拍車をかけたということである。前中納言為相よを寒みつはさに霜やおくの海の川原の千鳥更けて鳴なり(新千載集)佐大臣をなしこはおもふこころの奥の海の人にしられてしつみはてなん(新続古今集)156

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