女川町誌
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様である。古来詩歌に多く歌われている。「たづねてもあだし心の奥の海のあらき磯べはよる船もなし」(常磐井入道)はその荒い海を詠じた一首である。後者の奥の海は奥深く入込んでいる海として、万石浦を「奥海」とまた称した様である。万石浦の奥にある針浜の風土記に「当浜都て海上を奥海と申唱え候、又万石浦とも申唱え候」と記してある。これは先に奥海と呼んでいたのを後ちに万石浦と改称したことが知られる。万石浦の命名は二代藩主忠宗公の時代と伝えている。なお封内名蹟志には東奥嬴(おくのうみ)と書き、鮎川浜に在りと記し、更に黒崎の海上金華山の島の辺是なり。一説に浦宿・渡波の間なりといふ。針浜の中に一島あり、鵜の島といふ。順徳帝の叡吟あり、「うしとても身をばいづくに奥の海の鵜のゐる岩も波はかくらん」とある。針浜地方は古より由緒ある土地柄であることを思い合せる時、奥海の在りかも推測される様な気持がする。大六天山(だいろくてんさん)大六天山は北上山脈に於ける牡鹿半島の最高峯で、海抜四四〇・三米、女川町と旧荻浜村との境に位している。大六天即ち第六天は仏語で、欲界六天(四天王・忉利天・夜摩天・兜率天・楽変化天・他化自在天)中の第六の他化自在天で、欲界の最高所といわれている。そしてこの天に生れたものは、他の楽事を以て自由自在に自己の楽とすることが出来るという。換言すれば大六天は脈中の最高峯で、頂上よりは自由自在に四方を眺め得られる地点を意味するものと解される。現に大六天山は眺望をさえぎるものがなく、海洋はもとより内陸一帯を望むことが出来る高山である。なお大六天山には三国神社が祀られているので、この山を別に三国山とも称した。安永風土記横浦三国山の項に「山上より仙台並に相馬・南部相見え候に付名附候云々」とある様に、ここから三国山の名が起つたのであるという。望郷山(ぼうきようざん)望郷山は女川港の南方に聳える二八九・六米の高岳である。その南方の大六天山に次ぐこの附近の高山で、頂上よりの眺望が広く、郷土女川町の大部分を俯眼することが出来る。昭和の初め頃までは、確たる山名もなかつたということであるが、偶155
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