女川町誌
209/1094

深く、渓流は源を黒森(四〇〇米)始め、附近の深山幽谷から発し、水量が豊かで、この渓谷下流に発達した集落が大沢である。この地に卜嶺三渓秀院という古刹がある。この寺の山寺号が、この地の景観をよく表現している。なお現在渡波町の水道は、この渓谷の水流に水源を求めていることを思い合せて見ると、大沢の名称の起りも思い当るのである。安住(あんじゆう)は大沢部落の一部で、万石浦の沿岸にある小聚落である。聚落の前面海上に景勝の地として名のある津軽島がある。ここに津軽島明神社が祀られている。安住の地名由来は明かでないが、恐らくその位置から見て、気候・風土・風光等に恵まれた安住の所という意の佳名であると見られる。針浜(はりのはま)浦宿と共に万石浦の東奥に位し、浦宿の南方にある幽邃な聚落である。針浜は海辺の情景・山々の佇い、古碑の数々などから観る時、何んとなく奥ゆかしい土地柄の様に思われる。針浜の村名につき、安永風土記の村名由来の項に「元弘建武の頃、後醍醐帝の皇子、当国え左遷当浜皇居の節、神祖彦火々出見尊の旧跡を悉く当浜え被相移候由申伝え候。仍て彦火々出見尊兄君の鈎針を御失被成、赤目の口より針相出候故事により唱え候由申伝え候。以下旧跡並に名石滝等迄何も其節日向国より当浜え被相移候由申伝え候事」とある。針浜の地名は以上の様な故事によるものと伝えられ、なお、この部落内には鵜島(うのしま)・神社場崎(かしやばさき)・巴島・巴山・帝屋敷(みかどやしき)・猪落(いのとし)などの地名も今に遺つている。そして是等の地名につき安永風土記にはそれぞれ次の様に記録されている。鵜島(うのしま)葺不合尊御降誕の節、鵜の羽を取つた所と伝え、今に鵜が沢山住んでいる島である。神社場崎(かしやばさき)彦火々出見尊が海宮に至り、針を得給うて八尋の鰐を駿馬とされ、この崎より御上りなられた所であると伝えている。巴島(ともえしま)皇子が当浜を皇居の地とれされた故に、この名があると伝えている。帝屋敷(みかどやしき) 皇子の皇居の地と申伝えた。当時は御百姓が住居していた。是等の地名を通して見ると、往昔、高貴な方がこの地に難を逃れ、ここに隠栖されたのではあるまいか。そして肇国の古を147

元のページ  ../index.html#209

このブックを見る