女川町誌
208/1094

である。安永風土記の高白浜書出の緑ヶ崎の項に「住吉緑丸と申す鷹巣を懸け候所の由にて緑ヶ崎とも、また鷹白浜とも申伝え候」とある様に、高白の高は鷹から来たと見られる。前文中にある「緑丸」は百合若大臣の伝説などに見える緑丸という鷹と同名で、ここでは鷹の種類とも思われる。何れにせよこの地方は古来鷹などの猛鳥が多く棲んでいた所であつたと判断される。高崎山の高も恐らく鷹に関連するものであろう。浦宿(うらしゆく)女川浜から渡波・石巻方面に向つて石巻街道を西し、鷲神の坂路を越えると間もなく万石浦の沿岸に出る。この浦浜の東北岸にある浦宿・大沢・安住などの地域を浦宿浜といい、昔はこの聚落を浦宿浜屋敷と呼んだ。浦宿浜の中心地である浦宿の浜は、かつては沿岸通いの帆船がこの地を起点として万石浦を西へ横切り、渡波・石巻や小竹・荻浜など各港に通つたその要津であつた。またこの地は陸路石巻街道の要路に当たる宿場でもあつた。安永風土記の女川浜書出によると「当浜(女川浜)宿場に付き当初より諸所えの宿次里数共に左に御書上げ候事」とあり、次の様な記録が伝えられている。一、当郡浦宿浜え弐拾四丁四拾間一、本荷拾八文一、軽尻拾弐文一、賃夫九文一、当郡鷲神浜え五丁弐拾間一、本荷四文一、軽尻三文一、賃夫弐文一、当郡宮崎え八丁弐拾七間一、本荷八文一、軽尻五文一、賃夫四文この記録から見ると、浦宿は鷲神・宮崎などと共に、宿次郎ち宿場であつたことは明かである。従つて浦宿の地名は万石浦沿岸の宿場の意から出たものと推測される。なお浦宿部落の勝又八郎氏宅に現在も「八幡丸」と彫刻した大額が保存されている。伝える所によると、藩政時代に八幡丸という帆船を所有し、常に小竹浜に繫留してあつたということである。大沢(おおさわ)大沢部落は藩政時代に於ては、浦宿浜の端郷(はしごう)即ち一村として公認されない村であつた。万石浦沿岸にある安住(あんじゅう)は、端郷大沢に属し、ここに肝入が置かれた。大沢の地名はこの地方の地形から生れたもので、この渓谷は奥146

元のページ  ../index.html#208

このブックを見る