女川町誌
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七年八月官制を改正し、民選戸長の制度を廃止して官選とした。この際宮城県会は満場一致の決議を以て建議案を提出し、戸長に適任者を得て事務の完遂を望んだ。ここに於て松平県令は県会の建議を尊重して百六十余の聯合区域に縮小することを断行した。この当時の牡鹿郡内の連合戸長役場の所在区域は次の通りであつた。1石巻村三ヶ村戸長役場石巻村門脇村湊村蛇田村5大原浜外十二ヶ村戸長役場大原浜給分浜十八成浜 2大瓜外五ヶ村戸長役場大瓜村南境村水沼村高木鮎川浜網地浜長渡浜新山浜谷川浜鮫浦寄村真野村沼津村磯浜清水田浜小網倉浜3根岸村外三ヶ村戸長役場根岸村流留村祝田浜佐6女川浜外二十浜戸長役場女川浜宮ヶ崎桐ヶ崎竹須浜ノ浦石浜尾浦御前浜指ヶ浜出島江島塚4桃浦外十一ヶ浜戸長役場小竹浜折浜桃浦侍浜浜飯子浜野之浜大石原浜横浦高白浜小乗月浦荻浜小積港牧浜竹浜狐崎浜田代浜浜鷲神浜浦宿浜針浜沢田村以上の様に民選時代に新設した戸長役場の十三か所を縮小して六か所の連合戸長役場とし、先きの沼津・流留・沢田の区域を全廃して沼津を大瓜に、流留を根岸に、そして沢田を女川に編入した。その他は数個の村邑が合併して一区域を形成したに過ぎない。かくて区域の変更は維新当時より町村制実施の際まで、二十年間に三回行われたのである。明治二十一年一月に至り、法律第一号を以て市町村制が発布されて、地方自治団体の基礎が確立し、帝国憲法の発布された翌二十二年四月一日より之を実施した。そしてこの制度は従来の町村制とはその内容を異にし、自治団の真義に徹し且つ地方の実情に適応したものであつた。実施に際しては県及び郡の当局は、町村をして沿革・地勢・民情143

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