女川町誌
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し、志賀慶二氏を区長とした。更に五大区を十小区に劃し、石巻に小六区事務所を置いて奥田三十郎氏を区長とし、渡波に小七区事務所を置いて松田常吉氏を区長としたのである。その後百戸以上の町村に一人の戸長、または百戸以下の町村とか人口の稠密な市街地の如きは、数町村が連合して一人の戸長を置いた。戸長の資格は満二十年以上その町村に在籍し、十円以上の納税を行つた者が、その町村在籍者で五月以上住居した者により選挙されて県令の任命を受けた者であつた。任期は初め四年であつたが、同十四年には二年に短縮した。その後戸長選挙の手続が改正され、任命その他の権能が郡長に移つた。当時の民選女川村戸長は高橋戸平氏であつたが、同十七年八月官制の改正があり、戸長は官選となり、官選初代女川村戸長に遠藤民治氏があげられた。三、郡制の設置陸奥の地方に郡が設置されたのは、遠く奈良時代のことであるが、郡が地方制度として組織され運営されたのは、明治以後のことである。明治十一年七月第十七号布告を以て郡区町村編制法が発布され、府県の下に郡区町村を設け、毎郡に郡長、毎町村に戸長一人を置くこととし、郡の分合に関する実例をも示した。なお同年同月制定した地方代議制の新法であつた府県会規則によると、その第十条に「府県会の議員は郡区の大小に依り、毎郡区に五人以下を選ぶ」とある様に、当時既に郡区に地方自治制の基礎が出来ていたのである。県はこの郡区町村編制法に基き、十月二十一日大区を廃して郡と為し、小区を町若くは村と改称すべき命を発した。ここに於て、十一月十八日牡鹿郡長として黒川剛氏(大童信太夫)が任命され、大区の事務所を牡鹿郡役所と改め、石巻村字坂下町に牡鹿郡役所を設置し、同時に石巻村外三か村の戸長役場をも併置した。その後明治二十年九月138

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