女川町誌
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第四節明治以降一、明治初期の宮城県 慶応三年十月十四日徳川慶喜将軍職を辞し、大政を奉還した。時に仙台藩主は十三代伊達慶邦であつた。同年十二月九日朝廷は王政復古の大令を発し、総裁・議定・参与の三職を設定した。翌明治元年十二月七日陸奥国を分つて磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の五か国とした。同日慶邦に辞令があり、家名を立て二十八万石を賜い、仙台城を監守すべき旨の命が下つた。当時、伊達家の領地は陸前国の宮城・名取・黒川・加美・玉造・志田の六郡四十三か村で、家中総人頭は九千六百五十一人、総人数五万六千四百六十八人であつた。従つて是等多数の藩士を扶養し体面を保つて行くことは容易なことではなかつた。かくて藩士等は次第におちぶれ、城下仙台の町は日に日に荒廃して行つた。同年二年六月に至り、版籍奉還となつたので、仙台藩も土地人民を朝廷に奉還した。同十七日には伊達亀三郎(宗基)が仙台藩知事を仰付けられ、同時に一門以下平士に至るまで総て士族と称すべき旨の令達があつた。しかし、藩主が相変らず藩知事であり、藩士等が主なる役人であつたから、実際は昔のままであつた。135
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