女川町誌
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つてることが窺われる。而して尾浦にある伝説によれば印度釈旦国千葉大王の王子(別説には朝鮮国百済王の王子)が神亀二年尾浦に漂着して云々と書いてあるが、之れは西紀七百二十年代に当り、百済王敬福が武隈たけくま(岩沼)館を築いた頃のことで、七百四十年には仙台に国分寺が建ち敬福が陸奥守となつたから、之を照し合せて見ると日本民族女川移住とは何等か関係がつくようで、既にこのころ女川地方には小数の日本民族が蝦夷の中に入つて土着生活を始めたではあるまいかと考えれる。女川地方は山岳海浜地であるから遅かつたろうと一歩譲つてこの時代は未しとしても、千葉文書や古碑より百年、百五十年は早いと見るならば、安倍貞任の頃には先着はあつたろう。それが源氏の東征と、藤原三代源頼朝と葛西氏の領有等の際は、多数の移住が行われたものと思う。そして葛西四百年の太平時代に今日の女川の基礎開拓が出来、伊達三百年間に微に入り細に渉る政治が行われ開拓事業も進んだものと思われる。安永書出代数有之御百姓(女川関係)133
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