女川町誌
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安永書出より見た女川の開拓抑々安永の風土記書出は仙台藩の中頃で、今より百八十年位前に藩の命によつて民間から書上げたものであるから、女川地区開拓当初のことを知る資料としては無理であろう。しかし後に掲げてある各村々の『代数有之御百姓』の中から、十代以上続いている家々を拾つて古碑古文書の年代と対照して見ると、相関々係が見出されるから面白いと思う。例へば針浜には最高十代続いた御百姓があり、女川浜には十一代続いた大肝入家があり、桐ヶ崎には十代続いた肝入家、尾浦には十二代、十四代も続いた御百姓がある。十四代ともなれば一代二十五年平均と見れば、三百五十年も遡ることになるから応永の前後で、今より五百数十年前がその家の第一代として書き上げられたわけである。この安永の頃に氏のあるのは大肝入の丹野勇吉だけであるが、第一代はどの御百姓でも鈴木・木村・阿部・小山など氏のない者はいない。これは書上げる時の技術とも思われるが、又東夷征伐等に来て土着された人々である。即ち武士であつたろうという解釈もされるのである。思うに仏教や神社神道を信仰した主流は日本民族であろう。さすれば仏教や神社の遺跡は、大和民族の住居の遺跡ということが出来るわけである。然るに供養碑を建てるまでには次の条件が必要だと思う。㈠相当の信仰年数を重ねること。㈡その地に定住したこと㈢周辺にも仏教が普及し寺院が近辺にあるか僧侶の手が届くようになること。又神社信仰にしても千葉文書にあるように生業とまで密着するまでには、仏教と同様の条件が備わつたものと思われる。左様に考えると針浜の古碑の年代よりも桐ヶ崎の瀬祭の記事年代よりも五十年や百年、或はそれ以前に女川地方には日本民族が移り住んで居たではあるまいか。安永の書出しから推してすら五六百年前が初代として書かれ、或は初代前から居住していたと書いてる者もある位であるから、千葉古文書も、古碑も、書出も三者よく符合しているよ131

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