女川町誌
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更に村共有財産を監視し、村備荒蓄穀を管理し、土木・山林・戸籍等の事をも掌つた。且つ官より諸布告や、達などがあれば部下に公示するとか、人民の諸願・届書に奥書をしたのである。犯人は之を下調して之を代官に移した。但し大肝入の犯人取調は平民に限られた。また無告の民を救助し・孝子・義僕・節婦並にその成績の顕著なものは賞与の事を具申したり、事によつては郡内追放の刑を宣告したものである。四季或は随時に部内を巡視して、農作の景況を具申し、郡内に他藩関係の事がある時には、その藩吏と相談して処弁した。また民事上検視を要することがあれば、代官の職務を代行するなど、その権限は頗る広く、役料として草高五貫文の外に一か年補金として金七両を給せられた。その配下の手代は手当金一か年拾両で、増手代は五両、締役は捨両、増締役は二十日につき金一歩を給せられた。大肝入が勤仕中は苗字・帯刀・麻上下着用、妻子共に絹紬着用、藩中目印の堤灯・鞍馬を指免されたのである。女川地方に於て大肝入の居住したのは、前は女川浜で、後は横浦であつた。女川浜には慶長年間より大肝入であつた丹野家(助左衛門)が住居し、横浦には文政四年より大肝入木村家(五郎右衛門)が住居し、その後代々子孫が相継で明治初年に及んだのである。次に安永風土記書出から、肝入を置いた女川組各浜とその当時の大肝入名を抜萃すると左の通りである。女川組各浜肝入所在地と肝入名(安永二年風土記書出当時)123

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