女川町誌
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六、南北朝時代の石巻石巻開府の租葛西清重が文治年間(一、一八五―八九)に日和山に居城を築いてから、代々七郡三十五万石の封領を統治すること実に四百余年の久しきに及んでいる。この間石巻城主第五代葛西清宗、第六代清貞父子は、南北朝時代四面楚歌の地方情勢の中に於て正閏の理義を明らかにし、敢然として南朝を支持し忠節を尽した武家である。この忠臣葛西氏がこの地に居城していたので、この地方には南朝ゆかりの史蹟が、石巻湊の多福院を始め女川針浜等に多く見られる。石巻湊は昔の所謂牡鹿湊で、石巻地方で最も早く開けた所である。葛西家累代の墓石を始め、建治年間(一、二七五―七八)を最古として、南北朝の年号を附した古碑・板碑が、多福院を中心に多数累々と存在している。またこの附近牧山の麓には御所入ごしよいり・御棲おすま居い・御隠里おかくれさと・一条・二条・三条・桜川・淵辺屋敷などの地名がある。これら史蹟との結びつきから護良親王の一皇子宮説が生れたものと思われる。なお一説には葛西清貞が義良親王(後の御村上帝)を迎えるため造営した御所の址であるが、海路難風に遭つて奥州御成りが挫折し、将軍北畠顕信が亡兄顕家に代つて下向し、しばらく石巻に征戦の足を駐めた時の宿所が湊の御所であつたともいわれている。今の多福院の境内に吉野先帝菩提の碑という珍らしい古碑がある。この碑は葛西清貞(贈正四位)が南北朝正閏の戦に際し、南朝の正朔を奉じ、北畠顕家に従つて再度上洛し大いに忠勤を尽したが、利あらずして空しく石巻に帰還した。しかるに奥羽の南朝派に呼びかけ催兵調糧に奔走中、後醍醐帝崩御の悲報に接し、悲嘆痛哭止み難く、はるかに天皇の御菩提を弔わんがため、一碑をその菩提庵月光日輪寺(今の多福院)境内に建立したものであると伝えている。青苔のむした高さ五尺、巾二尺八寸の碑面に左の文字が刻まれている。115

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