女川町誌
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等がこれに従つた。顕家は途上各地に転戦し、大軍を率いて鎌倉より東海道を攻め上り、美濃の戦に大勝を得、路を転じて伊勢・伊賀を経て奈良に入つた。然るにその後形勢が漸く非となり、親王は吉野に入らせられ、顕家はなお各地に戦つたが泉州界浦に足利方の大将高師直と戦つて敗れ、遂に石津に於て戦死せられた。時に年二十一。.麾下の南部師行・武石高広等も壮烈な討死をとげた。顕家の戦死後南風競わず、足利方の勢力が日に盛んであつたが、後醍醐帝は東国に於ける南朝勢力の挽回をはかられ、延元三年閏七月顕家の弟顕信を陸奥介鎮守府将軍として、父親房と共に義良親王を奉じ奥州へ下向せしめられることになつた。九月に至り義良親王以下伊勢を発して海路東国に赴かれた。然るに海上颱風にあい、軍船四散して、義良親王は顕信・結城宗広等と共に伊勢に吹き返され、親房等は常陸に着いた。親王は翌延元四年三月吉野に遷られ、八月十五日譲を受けて天皇の位に即かれ後村上天皇と申上げる。その翌日後醍醐帝は万斛の恨みをのんで崩御あらせられた。親房は常陸上陸以後小田城に入つて東国の経営に任じた。興国元年(一、三四〇)夏、鎮守府将軍顕信は吉野より下向し、まず小田城に入り、六月更にここを発して奥州田村庄字津峯城に入り、顕家の後をうけて、これより奥州の宮方を指揮することになつた。将軍顕信がまだ奥州に下向されない延元三年十月、石巻城の葛西清貞はしばしば死者を常陸の親房に送つて先ず奥州に下向し、奥州の大軍を発して関東を平定すべきを勧めた。親房も又奥州下向の意思があつて白河の結城親朝に送つてその旨を伝えた。かくて葛西氏一族は当時石巻地方にあつて奥州宮方の主力として忠節を励んでいたのである。114

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