女川町誌
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建武二年(一、三三五)七月、北条高時の遺子時行信濃に起つて鎌倉に侵入し、近国の武士を従えて一時大いに勢を振つた。この時東北地方に於ても、これに呼応して所々に叛乱を起す者があらわれ、特に白河郡や津軽方面が動揺し、顕家は伊達・南部等の諸氏の兵を徴してこれを平げた。留守家任も叛徒討伐して忠勤をはけんだ。国分盛胤も同様に、勲功によつて名取郡内の飯田・日辺・今泉を賜つている。かねてより源氏再興の機をうかがつていた足利尊氏は大軍を率いて東下し、破竹の勢で時行の軍を破り、遂に鎌倉に入つて乱を平定した。これより尊氏の威は関東を風靡したが、更に彼は奥州にも勢力を伸ばさんとして、建武二年八月、一族の斯波家長・石塔義房を奥州管領に任じて奥州武士に対する工作を行わしめた。この両氏の策動によつて今後奥州武士の動きに大きな変化を示すことになつた。五、建武新政後の奥州その後の中央の情勢は足利方に有利に展開し、天王は遂に吉野に遷られた。このような情勢は陸奥国にも影響して足利方が大いに振い、多賀国府はしばしば敵の来襲をうけた。当時この方面の足利方の大将は石塔義房であつた。かくて国府は次第に危険に瀕したので、延元二年(一、三三七)正月八日顕家は義良親王を奉じて伊達郡の霊山に移ることになつた。ここは伊達行朝の領地であり、ここに移つたのは彼の献言によつたものと考えられる。多賀国府はやがて石塔義房が占拠することになり、戦局の中心は霊山に移つた。これより先、延元元年十二月、後醍醐帝が吉野に遷られるや、勅使をして綸旨を顕家に賜り、諸国の義兵を召されることになつたので、奥州からも官軍を率いて上洛すべき旨を仰せられた。顕家はこれを霊山に於て拝し、感奮興起し、当国の凶徒を平げ義良親王を奉じ急ぎ上洛した。結城宗広・伊達行朝・葛西清貞・南部信長・同師行・武石高広113

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